HISTORY

沿革

  • 1947(昭和22)年~1962(昭和37)年

    1947(昭和22)年~1962(昭和37)年

    電気の可能性を信じて
    ~小川電機商会を創業〜

    1945年の第二次世界大戦終了後、まだ戦禍の痕が残る大阪府下にあっても、未来に希望を持つ人々による新しい時代は確実に動き出していました。1947年、小川亥三夫は、産業を支え、また豊かな生活の基となる電気が「これからの時代には欠かせないものだ」と信じて大阪府和泉市に小川電機商会を創業しました。戦場から復員すると、すぐに工場の機械工として日夜仕事に励んでいた小川文三夫が、同僚の河野喜一郎を誘って始めた個人商店でしたが、これが現在の小川電機の原点となります。小川亥三夫は、河野をはじめとする10数名の社員と寝食を共にしながら、一心同体となって無我夢中で働き会社を大きくしていったが、こうした姿勢が、小川電機の社風ともいえる 「人を大切にする家族的経営」を生み出したのです。創業当初は、ラジオの修理や電球の小売りなどを生業としていたが、やがて、近所の電気屋から 電気工事の依頼が舞い込むようになりました。1954年には業務拡大のために法人化を図り、大阪市阿倍野区に小川電機株式会社(現、阪和三洋株式会社)を設立。そのころ、日本は高度経済成長期に入ったところで、翌年の1955年には、朝鮮特需によって日本経済が大幅に拡大され「神武景気」が始まり、それに歩調を合わせて日本住宅公団も設立され、公営住宅の整備が進みました。こうした時代の動きに沿って電気工事の受注はまさに倍々ゲームで伸び、さらに“三種の神器”と呼ばれた白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が1959年ころから爆発的に売れ、小川電機は飛躍的な発展を遂げました。

  • 1963(昭和38)年~1984(昭和59)年

    1963(昭和38)年~1984(昭和59)年

    住宅の建設ラッシュで事業拡大
    ~電材部門と家電部門を分社~

    1960年に発表された「所得倍増計画」により、経済活動が活発化し、人々の生活が豊かになった昭和30年代後半。家電製品は、カラーテレビ・クーラー・自動車が“3C”として注目を集め、住環境の整備も急速に進み、各地で 戸建て住宅や公団住宅の建設が相次いでいました。今後しばらく家電と住宅のブームが続くと予測した川亥三夫は、事業を拡大するため、1963 年、小川電機から電気工事材料部門を分離独立させて小川電機材料株式会社 (1991年・小川電機株式会社に社名変更)を設立。家電部門は阪和三洋株式会社と社名変更し、2社体制を確立させました。分社後、阪和三洋は、取扱品目を増やしながら新規顧客の開拓に努め、小川電機材料は、住宅の建設ラッシュの波に乗って、スピーディーで細やかなサービスで受注を伸ばし、翌1964年に、創業の地であり得意先も多かった大阪府和泉市に和泉営業所を出店。その後は「1年1営業所」をスローガンに、南大阪を中心に地域を広げながら、新しい営業所を次々と開設していきました。規模拡大に伴い、1973年には、各営業所を統括する本部・販促部を現在の商品センターがある大阪市阿倍野区阪南町3丁目に移し、業容を拡大。さらに、営業所11拠点、売上高が40億円に迫ろうとしていた1976年、和泉、岸和田、泉南、和歌山の4営業所を分離し、小川電機材料の子会社として阪和小川電機株式会社を設立しました。その後、同様に奈良エリアの営業所を分離させる形で、1982年に奈良小川電機株式会社を設立しました。 分社化は、各社が地元の営業所を統括し、地域に根ざした営業活動を展開するためで、若手社員にポストを与え、責任を持たせる狙いもありました。

  • 1985(昭和60)年~1990(平成2)年

    1985(昭和60)年~1990(平成2)年

    顧客第一主義を堅持
    ~創業者の意志を貫いて堅実経営を実践~

    1985年のプラザ合意により日本の輸出が停滞し始めていた。これをきっかけに翌年の1986年ごろから一時期、深刻な不況に陥っていた日本経済でしたが、やがて“バブル景気”と呼ばれる好況へ と突入し、その勢いは平成の時代に入っても続きました。一方、小川電機材料では、営業拠点の増加に加え 、分社化によって若手社員の自覚と競争意識が芽生え、1984年に念願の売上高100億円を達成しました。しかし 、さらなる飛躍を目指していた矢先の1985年、創業者の小川亥三夫が急逝するという非常事態を迎えました。事業を支える大黒柱を失い、会社の存続も危ぶまれたが 、営業でめざましい活躍をしていた和田一雄が2代目社長に就き 、小川亥三夫が残した会社を継続 · 発展させることを誓いました。新社長の和田は 、世間が熱に浮かされたような異常な状況にあっても、創業者の経営方針であった「顧客第一主義」を掲げる堅実経営を厳然として守り、地道に会社を発展させることに力を尽くしました。当時の小川電機材料というと電線をはじめとする不足しがちだっ た部材を適正価格で、滞りなくお客の元に届け続けて、顧客の信頼を獲得していました。また、大阪、奈良、和歌山など既存エリアでの営業所の開設に加え、新たに滋賀県に進出するなど、これまでの“1年1営業所づくり”を超えるスピードで次々と新しい処点づくりも進めていました。その一方で、営業所の拡大、分社化政策を推進 していくためには、人材育成が重要課題でもありました。そこで 、和田は、1987 ( 昭和 62 ) 年 から 、管理者養成学校(地獄の特訓)へ幹部候補者を参加させるなど社員の教育にも力を注ぎました。同校で訓練を受けた社員は後に幹部となり、その手法を活かした新入社員研修を考案するなど、現在までその教育が受け継がれています。

  • 2005(平成17)年~2008(平成20)年

    2005(平成17)年~2008(平成20)年

    第二創業期の幕開け
    ~組織力と営業力の強化~

    2000年以降、食品メーカーの賞味期限偽装や自動車メーカー のリコール隠しといった法令違反による企業の不祥事が相次ぎ、コンプライアンスを重視した経営が最重要課題の一つとなり、小川電機では、2005年に法務課を設置し、社員にコンプライアンス意識を浸透させました。また2006年に小川電機は、大手企業だけでなく中小企業も環境マネジメントシステムに関する国際標準規格(ISO14001)を獲得する動きの中で、環境改善・保全活動への取り組みを開始しました。同年に、小川電機株式会社本社、大阪商販株式会社本社、株式会社オージンでISO14001の認証を取得しています。このころになると、バブル崩壊後の”谷底の景気”からようやく明るい兆しが見え、緩やかながら着実な回復が続いていました。そのため、小川能理夫は、次代を見越した新たな経営戦略に打って出ました。2005年に、キャッシュオンデリバリーという新しいビジネススタイルの店舗として電材コンビニ Doitを設立した。また、株式会社でんざいをはじめとする子会社6社を小川電機株式会社に吸収合併し、組織力を強化。さらには、得意先戦略推進担当を新設して“攻めの営業”を展開しました。6社の吸収合併により組織が大きくなっ たことから、2007年には、本部制から事業部制へと移行し、本社の経営負担を軽減するとともに、事業部で迅速な意思決定ができる組織へと改めました。そして2009年には携帯電話事業の阪南テレコム株式会社を吸収合併するなど、来たるべき次の時代に向けて着々と準備を進めました 。